◆はじめに
私は現在千葉県佐倉市在住している芦別出身者の一人です。終戦の年に
北海道芦別市で誕生して18年間過ごした町です。当時は終戦後間もない
時代でしたので生活も大変苦しい時代を過ごした場所が昔懐かしく思いだ
される様になり現在、趣味で楽しんで行っているホームページを活かして
懐かしい思い出のある北海道芦別市の紹介を思いつきサイトアップをしま
した。
◆100年史
100年の昔、最初の開拓者がおとづれたときここは果てしない原野だった。
たくさんの人々が長く険しい道程を歩いてここにやってきた。道が生まれ街が
でき人々の喧騒やざわめきが街を満たした時代は流れ、街は変わる。しかし変
わらないことは私たちが希望とともに生きてきたことであり私たち一人一人の
問いに時代を開く力があるということなのだ。
◆芦別の黎明
芦別の人類の歴史は、旧石器時代から
縄文時代に至る先史時代、アイヌ文化
の時代、開拓期以降の時代、に大きく
分けることができる。もちろんそれ以
前にはイルムゲップ・キリギンの山々
やアンモナイトの化石だけが太古の地
球の姿がある。紙で書かれた芦別の
記録はわずか百数十年前にさかのぼる
に過ぎないが、それ以前の芦別に歴史
が無かったわけでも暗黒の時代だった
わけでもない。私たちは芦別の地中に
眠る岩石や化石、さまざまな遺跡から
出土した遺物、現代に受け継がれたア
イヌ文化などを手がかりに、かっての
芦別の姿を推理することができるので
ある。出土した遺物、現代に受け継が
れたアイヌ文化などを手がかりに、か
っての芦別の姿を推理することができ
るのである。
◆アシベツの語源(アイヌ語)
アシベツの語源には二つの説がある。
一つはアシュ・ベツ(切り立つ・川)
という説で川底が深く崖が切り立って
いる意味である。もう一つの説はハシ
ュ・ベツ(灌木の・川)という説で灌
木の中を流れる川という意味である。
ここでいう川とは、芦別岳に源流を発
する流程60qに及ぶ芦別川を示す。
その急峻な景観から考えると、アシュ
・ベツ設がいかにもふさわしく思える。
◆開拓の時代
単独移住者のほかに芦別にはさまざま
な団体移住者もやってきた。新しい入
植者たちは、すでに開拓を進めていた
同県人の家にいったん「わらじぬぎ」
をして土地を開墾し、独立していっ
た。当時の入植者の出身が圧倒的に
富山・石川に集中しているのもこの
団体入植者の影響でもある。もうひ
とつの開拓の方式は武市農場
(野花南)・京都植民協会農場(
上芦別)・中川農場(旭)など大規
模な貸下げ地に小作農を入れ、資本力
で開拓を進めようというものだったが
これは多くは成功しなかった。明治
33年(1900)芦別は歌志内から独立し
芦別村となり農業・林業・石炭産業を
3本の産業の柱として発展していく。
◆炭鉱の設備
炭鉱の作業には坑道を作る掘進、
切羽と呼ばれる坑道の先端での採炭、
通気、排水、事故を未然に防ぐ保安、
採炭した源炭を選択する選炭などさ
まざまな仕事あり、その仕事の工程
を合理的に進めていく設備やシステム
が作られている。たとえば東洋一と言
われた三井芦別炭鉱の巨大な選炭場で
は水選機やコンベア・脱水機が一見複
雑に絡み合いながら効率よく稼働して
いた。通気おためのコンプレッサー。
縦横に走る坑道の心臓部とも言える
立坑に設置された大きな巻き上げ機。
また近年はコンピュータによるさまざ
な制御・管理、環境を守るための廃止
処理技術のも力がそそがれてきた。炭
鉱の設備のひとつひとつに安全と合理
化へのあくなき追求がおこなわれてき
たのである。
◆芦別のアイヌ語地名
芦別のアイヌ文化を知る手がかりは
多いとは言えないが、そのひとつに芦
別地名がある。アシベツという市名を
含め私たちは多くのアイヌ語を起源と
する地名を使用してきた。その芦別の
地名を最初に記録に残したのは探検家
・松浦武四郎である。武四郎は安政
4年(1857)石狩探検の途上で空知川を
上り空知大滝に達している。武四郎
はこの探検行を「石狩日誌」に詳細に
記し、パンケホロナイやアシベツを
はじめとする多くの地名や空知大滝
の写生図を残している。
◆芦別のアイヌ語地名一覧
◇は、武四郎が先住民(アイヌ)から聞き取りを
した支流の名。
◆明治27年から大正14年までの移住者
(出身県別の数値) <除籍簿による>
◆統合経緯
一番懐かしく思い出されるのはやはり高校時代ですが、時の変化で芦別に3高校存在した高校も統合
されて2高校消滅し芦別高等学校一校になってしまった。何となく自分が消滅したかのように寂しく感
じられます。当時を懐かしく思い学校の統合経緯を記憶に留めたくメモ情報として掲載しました。
◆昭和32年4月開校 北海道芦別啓南高等学校
◆昭和39年4月開校 北海道芦別工業高等学校
【北海道芦別高等学校から編入】
◆昭和43年4月開校 北海道芦別商業高等学校に
校名変更【芦別啓南高等学校から変更】
◆昭和63年4月閉校 北海道芦別工業高等学校
◆昭和63年4月開校 北海道芦別総合技術高等学校に
統合【北海道芦別商業高等学校と共に】
◆平成01年3月閉校 北海道芦別商業高等学校
◆平成18年3月閉校 北海道芦別総合技術高等学校
◆平成18年4月 北海道芦別高等学校に統合
◆先住民族アイヌの生活
和人の入植以前、芦別は先住民族アイヌの生活の場であった。大きなコタンがあった記録ないが、
多くのアイヌ語地名が、今も残されている。芦別がアイヌの人々の良い狩場だっことは旭川近文コ
タンの故・川村カ子トをはじめ多くの証言があるし、又は班渓簡易教育所を開いた相河了瑞は、
空知大滝でのアイヌのサケ・マス漁の様子を克明に語っている。自然と共に生きたアイヌ民族
の生活と文化は、私たちの大切な財産なのである。
◆シントコ →
お神酒を入れる杯、お神酒
はイクパスイ(杯箸)で神
に捧げられた。
◆着物 →
様々なな樹皮の繊維で織ら
れ、アイヌ文様が刺繍され
た。オヒョウの繊維で織っ
たものをアットゥシ
(アツシ)と呼ぶ。
◆トゥキ →
お神酒をいれる杯。お神酒
はイクパスイ(杯箸)で神に
捧げられた。
◆タマサイ →
女性の儀式用の首飾り。
魔除けの役割も果たした。
◆チタベラ →
様々な模様を織り込んだ
花ゴザ。
◆エペレアイ →
花矢。動物の神送りのとき
に、神の国への贈り物とし
てつくられた。
◆マキリ →
小刀。獲物の解体やイナウ
(木幣)削りなど様々に使わ
れた。
◆サパウンペ →
男性が儀式のときにかぶっ
た。かぶる者を清めるとさ
れている。
◆建物(越中造り)
越中造りは越中建とも呼ばれ、富山県からの移住者が母村の様式を持ち込んだので、北海道各地に
分散する。最初は富山から大工を呼んで建築していたが、後に大工が移住するななどして地元の技術
者となっていった。芦別では富山県・石川県などの出身者が大正から昭和初期にかけて越中造りで家
を建てることが多かったようだ。越中造りの特徴は、ワクノウチ造りと呼ばれる構造にある。家の中
心の広間(オイ)は高い天井に太い梁が渡された、柱間の幅の広い鴨居(ヒラモン)で結ぶなど、枠
を組んだ堅固な造りをしている。建築費も一般の住宅よりははるかに高額で当時の農家の好景気を伺
がわせる。